大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和59年(ワ)14918号 判決 1986年1月30日

原告

稲川とし江

右訴訟代理人弁護士

高木徹

被告

東調布信用金庫

右代表者代表理事

長久保定良

右訴訟代理人弁護士

大林清春

池田達郎

白河浩

主文

一  被告は、原告に対し、別紙物件目録記載の土地、建物について東京法務局世田谷出張所昭和五三年八月一八日受付第三九五二八号の根抵当権設定登記並びに同法務局同出張所昭和五三年一一月三〇日受付第五七九二三号の根抵当権変更登記の各抹消登記手続をせよ。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は、別紙物件目録記載の土地及び建物(以下「本件不動産」という)を所有している。

2  本件不動産について、被告のため主文記載の根抵当権設定登記及び根抵当権変更登記がなされている。

よつて、原告は、被告に対し、本件不動産の所有権に基づき、右各登記の抹消登記手続をすることを求める。

二  請求の原因に対する認否

請求原因事実はすべて認める。

三  抗弁

1  原告は、昭和五三年八月一七日、被告との間で、訴外角田美代治(以下「角田」という)の被告に対する借入金六〇〇万円の債務を担保するために、本件不動産について、極度額を六〇〇万円とする根抵当権設定契約を締結し(以下「本件根抵当権設定契約」という。)、これに基づき原告主張の根抵当権設定登記がなされた。

2  原告は、同年一一月二四日、被告との間で、前記根抵当権の極度額を六〇〇万円から一〇〇〇万円に変更する旨の根抵当権変更契約を締結し、これに基づき原告主張の根抵当権変更登記がなされた。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は認める。

2  同2の事実は否認する。

五  再抗弁(抗弁2に対しては仮定再抗弁)

1  原告は、本件根抵当権設定契約当時、角田の虚偽の説明により、(ア)同人は公証人であり、(イ)被告の角田に対する貸付金は、同人の公証人役場開設資金として使われ、(ウ)原告は、同役場の事務員として採用されるものと誤信していた。

2  原告は被告に対し、右(ア)、(イ)、(ウ)の動機があるので本件不動産について根抵当権を設定する旨表示した。

六  再抗弁に対する認否

再抗弁事実のうち1は知らない。2は否認する。

七  再々抗弁(仮定再々抗弁)

仮に、原告の前記錯誤が要素の錯誤に該当するとしても、原告は角田とは昭和三五年ころからの知り合いであり、角田がどういう人物であるか十分知りうる立場にあつたのであるから、本件根抵当権設定契約当時、十分注意をすれば角田の前記説明の真偽を知り得た筈である。したがつて、この点の判断を誤り、本件根抵当権設定契約を締結したことについて原告に重大な過失があるから、原告は、被告に対し、錯誤による無効を主張できない。

八  再々抗弁に対する認否

再々抗弁事実は否認する。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因事実は当事者間に争いがない。

二本件根抵当権設定契約について

1  抗弁1の事実は当事者間に争いがない。

2  再抗弁(錯誤無効)について判断するに、前記争いのない事実に<証拠>を総合すると、角田は、定職を有していないにもかかわらず、公証人の肩書を冠した名刺を用い、自己の職業を公証人であると広言していたこと、原告は、角田の行きつけの中華そば店の従業員であり、昭和三五年ころから同人を知つていたが同人の日頃の右言動から同人は公証人であると誤信していたところ、昭和五三年一月ころ、同人から、近い将来独立して公証人事務所を開設する予定だが、その際保証人になつてもらえれば、原告を右事務所の事務員に雇用すると言われて、これを信じ、昭和五三年四月ころ、角田の求めにより、右事務所賃貸借の手附金名下に金五〇万円を同人に交付していたこと、ところで、角田は多額の債務を負つていたことから、金融機関から融資を受けて急場をしのごうと考え、同年五月ころ、被告の武蔵小杉支店を訪れ、同支店の融資係長である訴外玉田建蔵(以下「玉田」という。)に対し、前記名刺を示して、自分は公証人であるが公証人事務所開設資金を要するなどと述べて融資の申入れをしたところ、玉田から適切な担保の提供を求められたので、同年七月ころ、原告に対し前同様の虚偽の説明をして、原告所有の本件不動産(原告が居住している家屋とその敷地である。)を担保に提供するよう求めたこと、原告は、公証人事務所の事務員になれば、現在よりも仕事が楽になり安定した収入が得られるものと考え、これを承諾したので、角田は、同年八月上旬過ぎころ、原告とともに同支店に赴き、玉田に対し、本件不動産の登記簿謄本を示し、本件融資により開設する公証人事務所で働いてもらう予定の原告が、担保を提供してくれることになつた旨説明したこと、玉田は、本件不動産の担保価値は金一〇〇〇万円を下らないと判断し、角田及び原告に対し、金六〇〇万円の融資は可能との見込みを示したこと、角田は、あらかじめ、自己が千代田公証役場及び東北公証役場から約金六五〇万円の年収を得ている旨の虚偽の所得税納税申告書を作成して神奈川税務所に提出し、同署の文書収受印を得た上、その写の交付を受けていたところ、本件融資が実現の運びとなつたので、同月一六日、右写を玉田に交付したこと、玉田はこれを見て、角田が公証人であり、その説明に不審な点はないものと改めて確信し、融資金の使途を「事務所開設資金」として本件融資の可否について上司の判断を仰ぎ、即日決裁を得たこと、同月一七日、角田と原告は、同支店を訪れ、原告は、玉田の面前で、根抵当権設定契約書、信用金庫取引約定書、金六〇〇万円の金銭消費貸借契約書に、連帯保証人兼根抵当権設定者として署名押印したこと、ところが、昭和五四年八月ころに至つて、角田は公証人ではなく本件融資金は同人の債務の弁済等に充てられていることが判明したこと、玉田は、角田が公証人であり、本件融資金は公証人事務所開設資金として使用されるという同人の説明が虚偽であることがわかつていれば、玉田自身が本件融資に応じなかつたことはもとより、原告も角田の債務につき連帯保証し、担保を提供することはなかつたとの認識を有していること、以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

右認定事実によれば、原告は、角田が公証人であり、被告からの借入金は公証人事務所の開設資金に使用され、原告は右事務所に雇用される旨の角田の説明を信じたがために、保証及び担保提供をしたもので、かつ、玉田は右の事情を熟知していたものと認められ、原告の面前で角田が玉田に対し、開設される事務所で原告が働くことになる旨告げていること等を勘案すると、結局、原告は、角田の言動を介して被告に対し、前示の動機を黙示のうちに表示していたものと認めることができる。もつとも、一般に、債権者と物上保証人との間の担保契約において重視されるのは、物上保証人の同一性、担保物件の価値等であるから、主債務者の資力や借受金の使途のごときは、物上保証人においてこれを特に重視する旨を明示しない限り、法律行為の要素にはならないものというべきであるが、本件は、まず主債務者の属性について、単にその資力、信用性の程度を誤解したというにとどまらず、その身分、資格そのものを、真実は定職すら有しない者であるのに公証人であるものと誤信していたという、いわば主債務者の同一性をも損ないかねないような錯誤の存する事例であり、しかも、物上保証人である原告にとつては、この点に関する錯誤が、本件借受金の使途及びこれに伴う自身の生活保障という、物上保証をするについての基本的な動機形成と密接に結びついているのであるから、こうした特殊な事情にかんがみると、本件においては、表意者の保護の要請についても相応の考慮を要するものというべくこの観点から右の要請と取引の安全の要請の調和を図るならば、前認定の原告の動機を本件根抵当権設定契約の要素と認めるには、これが黙示のうちに表示されていれば足り必ずしも原告においてこの点を重視する旨を明示することまでは要しないと解するのが相当と思料される。

したがつて、原告主張の錯誤は要素の錯誤に該当するものと認められる。

3  そこで再々抗弁(重大な過失)について判断するに、前記認定事実によれば、原告は相当長期間にわたつて角田と接触してその人柄を見てきたものであり、それにもかかわらず同人の言動を信じ、生活の拠り所である本件不動産を担保に提供した軽慮は否定し得ないけれども、他方、角田はその身分について原告のみならず周囲の者一般を巧妙に欺いており、被告のような金融機関の融資担当者ですらこれを看破し得なかつたこと、原告は小規模飲食店の従業員に過ぎないことを考慮に入れると、原告が本件根抵当権設定契約を締結するについて重大な過失があつたとまでは認め難い。したがつて、再々抗弁は理由がない。

三本件根抵当権変更契約について

抗弁2の事実(本件根抵当権変更契約の締結)を認めるに足りる証拠はなく、かえつて、<証拠>によると、角田は本件根抵当権変更契約に先立ち、原告に対し、原告を公証人事務所の事務員として登録する上で原告の実印及び印鑑証明書が必要である旨虚偽の事実を述べて、その旨誤信した同人からその交付を受けた上、これを玉田に示し、右契約書(乙第二号証の二)に原告の氏名を記入して、原告の実印を押捺したものであり、右契約は原告の意思に基づくものではないことが認められる。

四以上の次第であるから、原告の本訴請求はすべて正当として認容すべく、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官倉吉 敬)

物件目録

一 所在 東京都世田谷区下馬三丁目

地番 四九番二三

地目 宅地

地積 六四・一三平方メートル

二 所在 同所三丁目四九番地二三

家屋番号 四九番二三の一

種類 店舗兼居宅

構造 木造瓦葺二階建

床面積

一階 四五・六八平方メートル

二階 四二・九七平方メートル

以上 稲川とし江 所有

(旧姓名 和田とし江)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例